out of control  

  


   6

 昨日、セリノスから飛んでこの辺境の村に着いたのは、夕暮れ時だった。
 合流したヤナフに事の成り行きを聞く間もなくまたネサラが妙な化け物に襲われて助けたんだが、正直尻を叩きたくなったぜ。
 もう隠し事は許さねえと言ったのに、承諾したのは上辺だけだ。表情だけはいつもの通りで、俺を掴んだネサラの指が震えていた。寒いからじゃねえ。俺がわからないものに、あの気の強いネサラが怯えていた。
 ……ったく、この期に及んでも意地を張りやがるからな。
 町の宿に戻り、クリミアの道化文官、ユリシーズだったか。あいつに回復の杖を使わせて、なんとなく程度だが顔色は良くなった。
 ただ、夜はなかなか眠れなかったようだな。新しく取った部屋にヤナフを押し込んで俺が同じ部屋で寝たんだが、ネサラは夜中に何度か寝返りをしてはため息をついていた。
 知らないふりをするのが良いのか、それとも強引に聞き出すべきか、俺も悩んだよ。
 お互いに寝た振りをしたまま一晩ってのは、正直きつかったけどな。

「それでは、大空の覇者たる鳥翼王様。ベオクの誉れなる蒼炎の勇者様にはどうぞよろしくお伝えいただきたく……」
「ああ、合流したら伝える。レニング卿、あんたにも面倒をかけちまったな」
「私はなにも。ご依頼の件についても確かに承った。此度の件、またなにかわかったらすぐに知らせます故、鳥翼王も身辺にはどうぞお気をつけられよ」
「おう。あんたたちも気をつけてな」

 昼下がり、俺はレニング卿に頼みごとついでに村の出入り口でクリミア城に帰る二人を見送っていた。ネサラは無理して起き出さないようにヤナフを見張りにつけている。
 一通り挨拶をした後は別れを惜しむ村人たちに譲り、少し離れた位置でどこから見てもこんな辺境の村には似つかわしくねえ二人連れが立ち去ると、俺はすぐに宿に戻ろうとした。あいつらがいる間はいいが、今は俺を前にしてどんな態度をとっていいやらわからない様子の村人の相手も面倒だからな。
 だが、翼を広げて飛ぶ前に遠巻きな大人の中から幼い子どもの声が俺を呼び止める。

「あの、タカのおじ…おにいさん?」
「おじさんにゃまだ早ぇな、なんだ?」

 遠慮がちな声がおかしくて笑いながら視線を向けると、そこにいたのは五つかそこらの坊主だった。おどおどしながらも迷わず俺の前に出てきた坊主の表情は明るくて、つぎはぎの服も顔の汚れも貧しさよりも本人の腕白ぶりを強調してる。
 なんだか懐かしい気分だな。昔は俺もこんなだった。

「カラスのおにいちゃんは、だいじょうぶ?」
「ああ。どうして?」
「昨日、助けてくれたから」

 俺に話しかけるのを止めようか迷う大人たちの中で、屈託のない笑顔がうれしい。
 屈んで視線の高さを合わせながら、俺は巻き毛の小さな頭を撫でた。

「大丈夫だぜ。そうか。昨日、ネサラが助けた坊主ってのはおまえか」
「うん。カラスのおにいちゃん、なんだか苦しそうだったから」
「ちょっと熱があってな。ありがとうよ。伝えとくぜ」
「ぼく、あとでお見舞いに行くからね」
「そりゃ喜ぶだろうが……いいのか?」

 この村はまだまだラグズを嫌う者の方が多いだろうに。そう思って訊いたんだが、坊主はにこにこしたままで言った。

「助けてくれた人にお礼を言うのはあたりまえだもの。おかあさんもいつも言ってる。村の人もそうだよ。じゃあ、ぼくが行くまで待っててね」
「……そうか。そりゃそうだ。坊主は良い人に囲まれてるんだな。ここは良い村だ」

 俺も狡いな。
 坊主の言葉に居心地悪げに目を逸らしたりあからさまに嫌な顔をする連中もいるのを承知でそう言うと、坊主は手を振りながら母親らしい女のそばに戻っていった。
 さすがに母親の顔は複雑そうだ。そりゃ、自分の躾の結果なんだから仕方がねえな。
 一息に飛ぼうと思ったんだが、俺はガタイがでかいからただでさえ怖がられてるのに、こんな囲まれた状態で飛んだらもっと遠巻きにされる羽目になるか。そう思って俺は歩いて宿へ戻った。
 宿の店主はさすがにラグズ慣れしてるのか、今さら怯えたりもしねえ。それどころか、まるで普通の客を相手にするように親切だった。

「鷹のお客人。上の方の食事だよ。持っていってやりな」
「悪いな。手間を掛けた」
「いいや。金さえ払ってくれるならいくら寝込んでくれても構わんさ。もちろん、元気な方が良いに決まってるがね」

 辛気臭くていけねえ、とパイプをくわえた店主の言葉が照れ隠しなのはもうわかってる。渡された盆の上には、心づくしの病人向けの食事が並んでいた。もう一度礼を言って狭い階段を上がると、俺は掠れた咳が聞こえるネサラの部屋に入った。

「待たせたな。大丈夫か?」
「……ノックしろ」
「悪い、飯だぜ」

 部屋に入ると、身体を起こしてヘッドボードにもたれたネサラが憮然とした面持ちでじろりと俺を睨む。そばに座るヤナフは小さく肩を竦めて苦笑だ。
 どうやら機嫌が悪いらしいな。

「じゃあ、王。おれは手はず通りアイクたちに合流します。ええと、この村で良いんですよね?」
「ああ。ここが中継地点になるからな。おまえたちが着くまで多分動けねえだろ」
「了解! じゃあ鴉王、あんまり無理すんなよ。行ってきます!」

 そっぽを向くネサラにそれだけ言うと、ヤナフは窓から飛び出してそのまま飛んでいった。村人の目があるからな。化身は離れてからだ。

「二人とも無事に発ったぜ。……なんだ、どうした?」
「王ともあろう者が軽々しく見送りなんかしやがって。すべてをベオクの様式に合わせろってわけじゃないが、そんなことをするとラグズの『王』の地位が軽いものに見える。あんただけじゃない。ほかの種族の迷惑になるってことを少しは覚えて欲しいね」
「わかってるって。俺も公的な場だったらやらねえよ」

 ややこしいテーブルマナーを覚えろと詰め寄った時と同じだな。いらいらした様子のネサラに答えると、ネサラはそれでも言い足りないとばかりにため息をついて水を飲んだ。
 実は、見送りに出た時に当の二人にも言われたんだ。王たる身に見送らせるなど言語道断、なんてな。
 ただ俺が「頼みがある」といった一言でそこは折れてくれたが、ネサラのいねえとこで話をしようと思ったらこれしか機会がなかっただけの話だ。

「村の坊主がな」

 とりあえず、話題を変えとくべきだろ。小さなテーブルを引き寄せて盆を置きながら言うと、ネサラの切れ長の目が俺に向けられる。

「おまえに礼を言いたいってさ。昨日、助けたんだろ?」
「成り行きだ。たまたま見つけたからであって、別に親切ごかして助けたわけじゃない」
「それでも助けたことには変わらねえさ。そら、口開けな」
「……スープにパンを浸すなよ」
「食いやすいだろうが。ほら」

 心底厭そうな顔をするネサラがおかしいが、ここで口を開けなけりゃ力ずくでも食わされるのがわかってるからな。
 いかにも渋々と口を開けて恨みがましい目で俺を見上げるネサラに笑いながら、俺はその口にスプーンを突っ込んだ。

「もういい。ちゃんと食うから、パンは入れるな」
「そうか?」
「ついでに言うなら、残りは自分で食べたいんだがね」
「全部食えよ。どうしても入らねえ分は俺が食ってやるから」
「…………」

 盆の上に並んでいるのは細かく刻んだ具の入ったミルクスープ、小ぶりなパン、きのことトマトのオムレツだ。どれも美味そうな匂いでさっき食ったはずの俺の腹が鳴りそうなんだが、ネサラはため息まじりにようやく口に運んでいた。
 体調が悪いのは仕方がねえが、そういやこいつが美味そうに飯を食うところってのはあんまり見ねえな。
 ベオクとの会食ではいつも品よく笑顔で食っていて、「お口に合ったようでなにより」なんて相手に言われてたってのに。
 神経質そうな手がスプーンを口元に運ぶのを眺めながら、俺は改めてこいつの好物がなんだったか考えた。
 酒は…好きじゃねえな。弱くはねえが、たしなみ程度だ。
 肉も魚も好きってほどじゃねえし、鷺みてえに木の実が好きかっつーと、それもない。
 要するにこいつには好きな食い物がねえのか? ……そりゃあんまり淋しいだろ。

「なんだ?」
「いや、あんまりおまえが不味そうに食うから、一体なんだったら美味いって言うか考えてたんだよ」
「……今は体調が悪いだけだ。俺にだって好物ぐらいあるぞ」
「ああ、ユクの実とか?」
「嫌いじゃないが、べつに好きだと言うほどじゃない。……そう言えば、あんたがキルヴァスへ来る時の土産はいつもユクの実だったな」

 良い加減に半熟の卵を口に入れてちょっと機嫌を良くしたらしいネサラに言われて、俺は正直驚いた。
 いや、こいつはずっとユクの実が好きなもんだと思い込んでたんだよ。
 言われてみりゃ、雛のころに手ずから食わせてやっていて、もっともっととせがまれたから好物なんだろうと思い込んでたな。

「雛のころはよく食ってたろ? だからてっきり好物だと思ってたんだよ。そりゃ悪かった」
「いや、だからって嫌いなわけじゃ……」

 ただでさえガキ扱いを嫌うのに、悪かったかと思って正直に詫びると、ネサラは珍しく慌てたように言いかけてまた黙り込んだ。
 よく見ると頬と耳が赤い。なにを照れることがあったのかわからねえが、せっかく食ってるんだから気づかないふりをすることに決めた。
 心配したが、そこまで最悪な体調でもなかったんだな。結局ネサラは気まぐれに俺の口に放り込んだ分以外は全部食った。
 八割ぐらいか。まあ充分だろ。
 空になった盆を店主に返して部屋に戻ると、まだぼんやりと窓の外を眺めていた。
 ……こんな時は、こいつがなにを考えてやがるのかさっぱりわからねえな。
 思えば、ラグズ連合を結成するからキルヴァスも加われって誘いをかけた夜も、こんな風に外を眺めてやがった。
 今になってわかる。あの時、言葉を変え態度を変え連合への参加を断っていたのは、裏切らなければならなくなるとわかっていたからだ。
 この時のことはヤナフも後で落ち込んでいた。ずいぶん酷く罵ったと。それは俺も同じだ。
 「おまえにはラグズの誇りはねえのか!?」なんてな。顔色も変えずに憎まれ口を叩くこいつに苛立って責めちまった。
 もちろん事情を知らなかったからだが、しばらくして「都合をつけてきた。……キルヴァスも加わろう」そう告げたネサラの胸の内はどんなだったんだろうな。
 何度も言ってたんだ。俺を信じるなと。
 かといって俺に「信じない」なんて選択肢はなかったわけで、今さら苦い思いがこみあげる。

「………なんだ?」

 ともすれば無表情に見える白い横顔を見ていると、しつこい視線にうんざりさせちまったらしいな。ネサラが切れ長の目を向けた。
 種族の差ってやつか。こうして見ると、どこもかしこも粗い作りの俺たち鷹と違って、ネサラの造形はやたら丁寧な気がする。

「いつからだ?」

 こんな見つめ方をしてちゃ、またあの良からぬ噂を思い出させるかもしれねえ。
 そう思った俺は、昨日から訊くか訊くまいか迷っていたことを口にした。
 嫌がられるのはわかってたんだけどな。

「化身できねえんだろ?」

 ネサラはなにも言わねえ。ただ黒に近い濃紺の視線を俺から逸らして、膝にかけられた薄い毛布を握った。

「昨日の化身が不自然過ぎたんでな。気になって見ていたらわかった。セリノスを出てからか?」

 毛布を握る自分の手に落ちた視線はそれ以上動かない。
 いきなり過ぎたかも知れねえが、無視できるようなことじゃないからな。しょうがねえさ。

「アイクのところの軍師から預かった術符で戦うっつっても、限度がある。ヤナフはたまたま体調が悪いからだと思ったようだが……違うだろう?」

 ラグズにとって、化身できねえってのは致命的だ。戦闘力は化身した時よりも大幅に落ちる。それでもネサラは下手な連中より強いだろうが、何者かもわからねえような相手に化身もできない状態で戦わせるような真似はしたくねえんだよ。
 そのまましばらく黙り込んだ横顔を見つめていると、張り詰めた空気を抜くようなため息をついたネサラが小さく咳き込んだ。
 撫でた背中の肉付きのなさが、なんとも言えねえ気分にさせる。
 本当になあ、なんだってこいつはこう……。
 素直に泣けとは言わねえが、もう誰かの手を借りたっていいんだって、どうすりゃわからせられるんだかな。
 こんなことを言うと、「どれだけ一人でやってきたと思ってるんだ」なんて怒鳴られちまいそうだけどよ。

「セリノスを出た時は……変わりなかった」
「その後ってことは……ナドゥス城で怪我をした時からってことか?」

 しばらく撫でると落ち着いて、観念したようにぽつりと言う。俺の言葉に頷いた横顔はもういつもの落ち着きを取り戻していたが、もし翼を出したままなら隠せねえ不安で小さく震えてたろう。
 そんなことがわかるくらいには、長い付き合いだ。

「ティバーン?」

 ベッドの端に腰掛けて肩を抱くと、ネサラは不思議そうな顔をして俺を見上げてきた。

「なにをやってるんだ?」
「どっかの意地っ張りが淋しそうなんでな」

 とたんにきつい目になって俺を押しのけようとする。けどまあ、腕力で俺に敵うはずもなし。
 俺はいっそう強く引き寄せてそっぽを向く頬を捉えて、額を合わせた。
 やっぱり熱いな。なんとなく泣きそうに見えるのは、熱で目が潤んでるからか。

「あんたは昔から図々しいよな」
「女にもよく言われるぜ。『断られると思ってないでしょ』なんてな」
「……それは、最低じゃないのか」
「なんでだよ。実際、断られたことはねえぞ?」

 触れた鼻も熱い。やっぱり、唇や口の中も熱いのか?
 確かめたいと思ったが、迂闊なことをして本気で軽蔑されるのは勘弁願いてえからな。
 顎から頬を包んだ親指の腹で触れると、柔らかい唇は熱のせいかちょっとかさついていた。
 焦点が合わねえほど近くでじっと俺を見ていた切れ長の眼差しが、居心地悪そうに瞬きして逸らされる。
 睫毛が長い。髪と同じ深い青だ。伏せられると感情が隠れちまう。
 ……嫌だと、言わせてえな。
 ネサラは長年元老院のクソ野郎どもに絶対的な服従を誓わされていたせいか、今でも「嫌だ」とは言わない。
 他愛ないことなら多少言うこともあるが、特に少しでも仕事絡みならなおさらだ。
 償おうって気持ちもあるだろう。だがそれ以上に、あいつらに向けていた絶対的な服従心が償いの方に移っちまってるんじゃねえかと、それが心配だった。

「……ネサラ」

 耳元に寄せた唇で囁くように呼ぶと、おとなしく腕に収まったままの身体がぴくりと震える。
 本当に、どうしたらいいんだろうな。おまえ……。
 俺は、いっしょに国を作りてえんだ。
 一方的に命令して、従わせて、働かせたいわけじゃねえ。
 ああだこうだ意見を言い合って、同じように民を支えて行けたらと思ってる。
 ロライゼ様は王ではあっても浮世離れしていてこういった実務には向かねえ。俺も苦手じゃねえが、それでも為政にかけては長年あのキルヴァスを一人で支え抜いたネサラには及ばない自覚がある。
 おまえも王だ。もしおまえが望まないとしても、鴉の王冠はもしかしたら歴代でもっとも相応しい者の上にあるんじゃねえかと俺は思ってる。
 もう、ガキじゃねえんだ。対等な王同士、本気で手を取り合って生きて行きたい。
 そんなこっ恥ずかしい思いをどう伝えたもんか、悩んでいるうちにほとんど抱きしめるような姿勢になっていて、無意識に白い首から肩口に歯を立てそうになった時だった。
 やけにおとなしいと思ったら、ネサラが固まってたんだよ。そりゃもう、石みてえに。

「あ、あぁ悪ぃな。考え事をしちまってよ」

 いかん、いかん。いくら抱き心地がよくてもネサラは女じゃねえだろ!
 こんな時にはろくでもねえ経験値が出ちまうな。

「ネサラ?」

 それでも、いきなり引き剥がすのも失礼な話だ。とりあえずそっと起き上がって覗き込むと、ネサラは自然発火しそうな勢いで赤い。身体も熱いし、まずった。そうだよ、熱があったんだよな。

「大丈夫か?」

 慌てて潤んだ視線を逸らすネサラが心配で背けられた顔を追いかけても、今度は無遠慮な薄い手にべち、と顔を押しのけられた。
 そのまま膝を抱えて顔を隠されて、俺はなんともバツの悪い思いで頭を掻く。
 参ったな。そういや、誤解を解いとけって言われてたのに、真逆のことをやってるじゃねえかよ。
 これじゃ呆れられてもしょうがねえ。
 どうしたものかと思ったんだが、顔は隠しても耳はむき出しで、しかもあんまり赤くなってるものだからついな。俺はそれ以上なにも言わずにとりあえず俯いた頭を撫でた。
 三回目には払われたが、背中に触れた手はそのままだ。

「ネサラ、誘ってるようにしか見えないぜ?」
「……なにをだ?」

 そんな姿を見てたらつい悪戯心がわいて来る。
 そのままの姿勢でぼそりと問い返すネサラににやりと笑うと、俺は毛先にだけわずかに癖のある青い髪に唇をつけて熱い耳に囁いた。

「俺をだよ。本当に噂通りの関係になってみるか?」

 セリノスに国を構えてから、お互いにずっと忙しすぎたからな。
 こんな風にじゃれるのもたまにはいいもんだ。
 思った通り、まさに驚愕の表情になったネサラが顔を上げて、信じられないものを見るような目で俺を映す。
 はは、男を抱く趣味はねえが、俺もこいつ相手なら口づけぐらいは平気だろうぜ。試せりゃいいんだが、試したらなにかと最後になりそうなのが残念だ。

「………この術符の最初の犠牲者になりたいらしいな」
「安心しろ。一応、冗談だ」
「なにが『一応』だ。……あんたが言うと冗談に聞こえないんだがね」

 俺の唇が触れた耳を押さえて早速炎の術符を取り出したネサラに低い声で凄まれ、俺は降参の証に両手を軽く上げて距離を取る。
 ネサラの魔力はちょっとした魔道士並みだ。食らえば軽い火傷くらいじゃ済まねえからな。
 やれやれ、からかうのも命がけだぜ。

「誰か来た」
「ん?」

 しばらくして、俺を睨んでいたネサラが視線を外してぽつりと言う。耳を澄ますと、確かに階下に人の気配がした。
 敵意はねえな。子どもの足音と…もう一人は大人か。こっちも大きな音じゃねえ。

「どうやら昨日の坊主が来たみたいだぜ」

 ぽんと毛布越しに膝を叩くと、忌々しそうに舌打ちしたネサラが術符をしまって顔を背ける。頬や耳は赤いままだが表情だけがいつものネサラで、落ち着きなく前髪をかき上げて平静を装うのがおかしかった。

「どうぞ。開いてるぜ」

 思った通りだ。遠慮がちなノックに声を掛けると、開いた扉からさっきの坊主がひょっこりと顔を見せた。

「カラスのおにいちゃん、元気?」
「あぁ、なんとかな」
「おかあさんもね、お礼言いたいって」

 あどけない坊主の笑顔にネサラが微笑み返すと、思いつめたような目をした女が坊主の後ろから入ってきて頭を下げた。
 髪と目の色が坊主と同じで面差しも似ているが、早く歳を重ねるベオクでもまだ中年と呼ぶには間がある母親だ。

「昨日はこの子を助けてくださって…本当にありがとうございました。この子のために怪我までさせてしまったそうで、なんとお詫びを申し上げたら良いのか……」
「俺の怪我はその子のせいじゃない。気にしないでくれ。礼を伝えにきてくれた気持ちだけで充分だ」

 俺たちを見る目には嫌悪感もない。ただ深々と頭を下げた母親に倣って坊主もお辞儀をして、ネサラは泰然とした口調で二人に言った。
 そう言えば俺の知ってる「キルヴァス王」のネサラはいつも憎まれ口を叩いていたが、民には狂信的なほどに愛されていた。きっとこれが本当の「キルヴァス王」の姿なんだろう。

「はい。でも…うちの人に続いてこの子までもし……そうなったら私は、生きては行けませんでした」
「それはそうだろう。無事でなによりだったな」
「はい……」

 妙だな。なにかひっかかる。
 ネサラを見るこげ茶色の目に思いつめた光を見つけて、俺は視線だけでネサラに問いかけた。……気づいているな。

「坊主、名はなんて言うんだ?」
「ぼく? マルロ!」
「そうか。マルロ、こっちに来な。お袋さんは鴉の兄ちゃんと話があるんだってよ」
「そうなの?」

 小首を傾げた坊主、マルロに言うと、俯きがちな母親とネサラを見比べたマルロがためらいがちに俺のそばに歩いてきた。
 ここは二人部屋だ。寝台も椅子も二脚あるからな。もう一つの椅子を母親に勧めて俺はマルロを膝に抱えて少し距離を取る。
 それで少し話しやすくなったんだろう。母親はネサラを見て一度口と目を閉じ、思い切ったように顔を上げた。

「あの、実は……」
「なんだ?」
「私たちが、あの怪物を呼んでしまったのかも知れません」
「……どういう意味だ?」

 酷く緊張した言葉にネサラが僅かに目を見張る。俺も同じだ。いきなりなんでそんな話になるんだ?

「うちの人が戦争に行って…いえ、うちだけじゃなく、村の男衆が戦争に行ってしまって、私たちは無事に帰るよう、ずっと祈っていました。おまじないもしました。昔から伝わるまじないです」
「まじない?」
「はい。家の軒先に、家族の髪を少し切って、うちの人のよく着ていた服に包んで吊るすのです。手紙を書きたくても、私たちの中で読み書きできる者は少ないですし……昔から、男が戦に行く時にはそうしてきたのだと」
「それがどうして化け物の話に繋がるんだ?」

 ネサラが首をかしげて訊くと、母親の目にいきなり涙が盛り上がった。

「おかあさん!」
「大丈夫だ、マルロ。心配いらねえ」
「でも……」

 それまで機嫌よく俺の膝に納まっていたマルロが慌てて駆け寄ろうとするが、その前にネサラの指が母親の涙を拭う。
 穏やかな濃紺の目が続きを促していた。

「私、知ってるんです……。村の人は隠そうとしてたけど、でも……最初に殺されたローザは、帰ってきた夫に殺されたんだってこと」
「夫? それは、そのローザという女のか?」
「はい。泥に埋もれた骨が、ローザとローザの息子が作って渡したお守りを握っていました。だから、きっと…!」
「その怪物にローザの夫も襲われた可能性は?」

 優しい問いかけに、母親が首を振る。背格好もそうだとしか思えねえ、か……。
 しかしなあ。本人だって言い切れるのか? まして骨になったらどいつもこいつも同じようなもんだろう。せいぜい大雑把な背格好や、歯の数が合うかどうかぐらいだと思うんだがな。

「その話を騎士にしたか?」
「いいえ。クリミアの騎士様には…言えませんでした。だって、あんまり悲しいでしょう? 戦に行った者が生きて帰れなかったのは、我々の責任でもあるとおっしゃられて……尊い方が私たちに頭を下げてくださいました。それなのに、こんなことになるなんて……」
「そうか。この村では何人が帰ってこないんだ?」
「二十六人になります」
「………その数だけ父親が、あるいは息子が帰って来なかったんだな」

 ネサラの囁くような声に母親は俯き、握った手に涙を落としながら嗚咽を堪えた。
 辛いな。……戦なんざいいことはなにもねえ。
 俺は鷹だ。戦うことは嫌いじゃねえし、むしろ血肉が沸き踊るような躍動感があるのは認める。だからなにがあろうとそれは覚悟の上だ。
 だが、好きで戦ってるわけじゃねえヤツが死ななきゃならんのはおかしい。

「話はわかった。よく話してくれたな。大きな手がかりになるかも知れない」
「あなたは私の息子を助けてくださいました。ほかのはんじゅ…ラグズの方々も、真心こめて復興を手伝ってくださった。この冬、男手を無くした私たちが飢えずに過ごせたことは、どんなに感謝をしても足りません」
「それはクリミア女王の人徳だ。女王の要請でなければ、今も俺たちはベオクの村になど来ようとは思わなかっただろう」

 少しおどけるように笑ったネサラに、母親も涙を拭いて笑った。どうにか雰囲気が明るくなったな。マルロもほっとしたようだ。

「お話を聞いていただけてほっとしました。皆はまだ遠巻きにしていると思いますが、本当は話しかける機会を上手く伺えないだけなのです。この通りなにもない村ですが、国に帰られましたらまた皆様に来ていただけるようお話してください。なにもなくても、この辺りの春と夏は本当に美しいんですよ」
「そうか。それは楽しみだ。必ず伝えよう」
「はい。マルロ、いらっしゃい」
「はーい!」

 母親の優しい呼びかけに元気よく俺の膝から飛び降りると、マルロが母親のエプロンにじゃれてくるりとネサラを振り返る。

「やくそく! ね、カラスのおにいちゃん、ラグズにも王さまっているんでしょ?」
「あ、あぁ、いるな」
「カラスの王さまと、タカの王さまにつたえてね。村にあそびにきてくださいって。もし会えたらぼく、おいしいスコーンを焼いてあげるから。あ、王さまにはナイショだよ!?」

 王様に内緒ってのはちょっと、いやだいぶ難しいな。苦笑してうなずいたネサラにすきっ歯を見せて笑うと、マルロは「でも」とつけたした。

「カラスのおにいちゃんと、タカのおにいちゃんにはおまけで焼いてあげるね! だから王さまといっしょにきて。たのしみにしててね」
「マルロ! そんな、王様がこんな辺境においでになるはずないでしょう? す、すみません。あの、子どもの言うことですからお許しください」

 ラグズの王の場合は案外来たりするんだがな。
 なにやら名乗れない雰囲気になって、ネサラは「気にするな」と一言、俺は「いやいや、伝えとくぜ」と笑って、ベオクの親子を見送った。
 そういや、名乗ってなかったんだよなあ。知られたら厄介そうだし、言わなくて正解なんだろうが、ちょっとな。面映いもんだ。

「どうするよ? 鴉の王様?」
「あんたこそ、鷹の王様だろ」
「ははは、そりゃそうだ」

 熱のせいだけじゃなくほんのりと赤くなったネサラに言うと、照れたらしく憮然としながら勢いなく答える。

「レニング卿とフェール伯には伝えるべきかも知れないな。あの二人のことだから、もう情報を掴んでる気もするが」
「……どうだろうな」

 こればかりはわからん。
 首を振ってまた俺が横に座ると、ネサラは顎をつまんで黙り込んだ。考える時の仕草だ。

「必要だったら俺がひとっ飛びしてくるぜ?」
「いや、それには及ばない」

 本当は、こんな状態のネサラを置いて行きたくねえけどな。
 そう思いながら提案したが、ネサラはあっさりと首を横に振る。

「ほかのところの被害でも、同じような報告があるかも知れないな」
「ああ。調べるか? どちらにしろ、ここを発ってからになるが」
「ヤナフに言伝を頼んである。あんたは気に入らないかも知れないが、俺の部下を動かすぞ」
「好きなように使え。情報収集にかけちゃ、ヤナフとウルキはともかく俺の部下はおまえの部下の足元にも及ばん」
「あんたのところはあの二人がいれば充分だろ。ちゃんとほかの連中も育てるんだな」

 そう言うとネサラはかすかに笑って、ごそごそと毛布の中に潜り込んだ。

「辛いか?」
「さすがにね。ちょっと寝る」
「いいぜ。そばにいてやるから安心して寝な」
「はン、ガキじゃあるまいし……」

 そう言って背中を向けたネサラの耳はやっぱり赤い。照れたなら素直に照れたと…言える性格じゃねえな。
 こみ上げる笑いを殺せずに、俺は椅子に腰を下ろしながらそんなネサラの頭を撫でた。
 一度はうざったそうに俺の手を払ったネサラも、繰り返すうちに諦めたのかおとなしくなる。
 どんな状況でもガキどもは元気だな。窓越しに聞こえてくるガキどもの笑い声が心地よかった。
 しばらくそんな声を聞いていると、寝ているとばかり思っていたネサラがぽつりと言った。

「キルヴァスは………」
「ん?」
「冬に子どもが外で遊ぶなんてできなかった」

 眠いのか、声は小さいし発音もあやしい。ただ「そうか」とだけ答えると、ネサラが少し笑った気配がして、もうほとんど眠ったような声で続ける。

「これがベオクでも、子どもが元気なのはいいものだな……」
「今はセリノスで鴉の雛どももはしゃぎ回ってるぜ。いつだってガキから仲良くなるもんさ」
「あぁ、それは……」

 感謝してる。最後はほとんど独り言だった。
 嘘をつく時にゃいらねえほど滑らかな口が、本音を言う時はやたらぶっきらぼうで……。そんなネサラの言葉がやけにうれしかった。
 もう一度聞きたかったが、それも野暮な話だ。
 痩せた身体をがむしゃらに抱きしめたい衝動をかろうじて堪えていると、静かな寝息が聞こえてきた。
 そっと覗き込んだ寝顔にはどんな険しさもなくて、安心しきった様子にほっとする。
 思えばいつも張り詰めたままだったんだ。昨夜は心配したが、眠れるなら大丈夫だな。
 起こさないように頭から手を離すと、毛布から出たままのネサラの手をそっと中に入れてやった。
 すると、条件反射だな。離れる前に俺の指先が白い手に握られる。
 手が使えねえのは多少不便だろうが、それでもこいつが握っていたいなら、いつまでも貸しといてやりてえもんだ。
 そんなつまんねえことを考えた自分がおかしくて、ついな。声を殺して笑っちまった。

「……それにしても……」

 いやいや、笑ってる場合じゃなかったぜ。気になるのは、こいつが化身できなくなった理由だ。
 俺の手を握ったままのネサラの左手首には、俺のものとは守護石の違う王者の腕輪があった。
 俺のは緑だが、こいつのは青だ。いつもは深い青の石が、今は少し色が薄い。腕輪の力もなくなってるってことなのか?
 しかし、それならネサラの身体に化身の力が満ちない理由にゃならねえよな?
 本当に体調が悪いのが理由ならいいんだが、ラグズにとって化身できねえ不安ってのはなによりもでかい。
 やっと落ち着いてきたとこなんだ。厄介なことにならなきゃいいが……。
 名残惜しくネサラの手を離すと、俺は眠り込んだネサラの身体にもう一枚俺の寝台の毛布をかけてやりながら、重苦しい気分で深いため息をついた。






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